今のもやもや

なんというか、負の感情もどこかで残しておいたほうがいいのかなと思いました。とはいえ、例えば身内やカウンセラーのような人にしか話せないことは書かないけど。
この感染症に関連して、もやもやしていることがずっと続いています。ちょっとまとめてみるのもいいかもしれません。2月末にのんきだった自分も恥ずかしいですが、いま感染が再び拡大するなかで、何をどう考えたらいいのかわからなくなりました。

新しい生活様式

まず、もう誰も「新しい生活様式」と言わなくなったことです。緊急事態宣言解除後、感染対策の規制が緩和されるにつれて、人との接触が戻ってきました。以前は、もやもやしつつ、従来通りのやりかたになるのはしかたがないと思っていました。感染者が減っていたからです。少なくともこの地域では長いあいだ新規感染者がなく、人との接触を増やしてもあまり心配する必要はなさそうでした。しかし11月のこの状況で、それでいいわけがありません。緊急事態宣言中は、片田舎のお店でも自主閉店したり飲食コーナーを中止したりしていました。今、そういう動きがちらりとも見えないのが不思議でなりません。リモートワークや時差出勤はどうなったのでしょう。県外、特に都市部への移動も従来通りのようです*1

人が集まる場での対策

人と接触しなければならないときは感染対策が必要ですが、これが意外と難しいです。「密」という言葉は便利ですが、どうも、密集に焦点が当たってしまい、密接と密閉が忘れられがちになっている気がします。例えば、会場内にいる人の数は少なくても、互いに近づいて話をすることがたびたび起こりますし、話す時間もそれなりに長くあります。また、換気を行うタイミングを定期的に作るのはたいへんです。こまめに手を洗い、いろいろなことに気をつけても、感染しないという確信はありません。都市部にいなくても、経路不明で感染する&感染させるのではないかと不安になってきました。

感染対策か経済か

この表現にも引っかかっています。ビジネスには非接触型のものもあり、業績を上げている企業もあります。それに、感染対策をしつつ経済を動かすことを考える知恵は尽きたのでしょうか。なんのために神様から与えられた知恵なのでしょう。

遠隔授業

私の仕事周辺でいうと、遠隔授業の位置づけに、もやもやしているかもしれません。今、一番恐れているのは、関係者が感染したから遠隔授業に切り替えてね、と急に言われることです。遠隔授業はツールがあれば行えるわけではなく、それなりの授業設計が必要です。
ある人が「遠隔授業を行うならオンデマンド型が最も良いだろう」と述べていましたが、その通りだと思うようになりました。オンラインで学べるように整えるのですから、リアルタイムでコミュニケーションをする必然性は少なく、やりとりはメールやメッセージアプリでもいいわけです。そのほうが、オンラインで学ぶことに特化した授業を作ることが出来そうに思います*2
今回、対面のような授業を遠隔に置き換えるだけだと、何かが欠けると実感しました。1970年代くらいから、人間は頭の中だけで学習を進めるものではないと言われてきました。教室では、視線、他人の反応、何らかの道具など、身の回りにある他のもの*3を利用して学ぶことができます。遠隔ではどうでしょうか。ある記事では「低学力層は対面よりも成果が下がる傾向」にあるという報告が紹介されていましたが、これは痛感しています。対面授業を思い浮かべながら準備された遠隔授業では、使えるモノや情報が対面時よりは少なかったり、異質なため使い勝手が悪かったりして、受講者が不利な立場になっているのではないかと考えています。

春と比べると

緊急事態宣言時より大きな数字になっているのに俯瞰的な対策を打ち出さない政治がきついです。国も、自治体も*4。それとも、もう個人の努力で防げるものではないので、罹ったらしかたがないということなのでしょうか。そして、日常生活ではマスク着用と手洗い程度で、相手に近づくのを避ける等、新しい生活様式ができているとはいいにくいです。また、それをやらなくても、指摘したり注意をうながしたりする人はいません。
何事も神のみぞ知るなので、対策をしていても感染するときはしちゃうんですよね。そんなときはどうなるか、気が重いです。

*1:おかげで夫がこちらに来ることができるわけですが…

*2:オンデマンド型はしたことはないんです…

*3:社会的分散知

*4:新潟県は注意報や警報にあたる数値基準をきちんと出しているのに、いざその数値を上回ると「警報に該当するか確認中」「病床数は近日中に解消見込み」など但し書きを付ける点にモヤモヤします